三輪山から5日目、天白磐座遺跡へ(2017/4/20)

旅の締め、まず、ホテル近くの《舘山寺・穴大師》に寄った。穴大師とは、約1500年前の横穴式古墳で、弘法大師が舘山に立ち寄った際に、この洞穴で37昼夜修業し、その礼にと舘山寺を開創したのだという。弘仁元(810)年の開創で、明治3年新政府の神仏分離令で廃寺になったが、明治23年再興が認められ曹洞宗 秋葉山 舘山寺となった。
洞穴の入口は狭く奥行きも浅い、奥には、自作の弘法大師の石仏が安置されていることから穴大師とよばれ、心願成就・眼病平癒のお大師様として信仰されているという。
 ▼ 石室を覆う墳丘
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 ▼ 入り口
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 ▼ 羨道
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 ▼ 玄室
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 ▼ 内側から表を
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 ▼ 舘山寺
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参拝を終えて、浜松市引佐町の《渭伊神社・天白磐座遺跡》に向かった。井伊直虎ゆかりの龍潭寺の駐車場にクルマを置いて探し歩いた。お目当ての磐座は、薬師山とよばれる比高30mほどの低い小さな丘陵上にあった。

▼ 渭伊神社に向かう途中で・・・
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考古学者の辰巳和弘教授が、30代に、巨岩の直下から、大量の土器のほか刀・鉾・槍鉋・鏃などの鉄製武具や工具、そして滑石製の勾玉を発掘した。古墳時代から平安時代前期まで磐座祭祀が行われていた聖地である。
 ▼ 渭伊神社
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 ▼ 磐座へ向かう
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 ▼ 天白磐座遺跡
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 ▼ 3番目に大きい石に触らせて貰った。 参考HPの「C石」
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        参考HP⇒ 《渭伊神社・天白磐座遺跡》

クルマに戻る途中《地域遺産センター》に立ち寄った。
 ▼ 井伊谷周辺の遺跡から出土した《土錘》の展示あり(左下)。浜名湖が使用か?
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図録《浜松の遺跡2・3》を購入した。浜松市内には1000ヵ所以上の遺跡が知られており、年間100件前後の発掘調査を行っており、その成果を書籍として刊行しているのだという。


最後、井伊直虎ゆかりの龍潭寺の本堂・庭園・開山堂等を拝観した。渭伊神社周辺が閑散としているに対して、こちらには、何台も観光バスがひっきりなし。
 ▼ 本堂
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 ▼ 開山堂
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 ▼ 小堀遠州作の庭園
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三輪山の磐座と天白磐座の2磐座探訪という目的を無事終え満ち足りた気持ちで、三ヶ日IC経由で帰途についた。
 ▼ 富士川SAからの富士山
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この日の歩数12,770、220段を数えた。帰りの高速道路を100km~120kmで飛ばすツレに、今日もボクと同じ歩数を歩かせてしまった。
# by from76 | 2017-04-21 12:55 | アウトドア | Comments(0)

土錘(どすい)とイイダコ壺 (2017/4/14)

b0048558_21285934.jpg4月の《前方後円墳研究会》、5冊目の文献解読が始まった。和田晴吾「古墳時代の生産と流通」である。

これまでは、墳丘や埋葬施設といった遺構を対象にしたものだったは、今回は、土・石・金属製品などの遺物をテーマにした文献だ。

テキストのトップは、弥生・古墳時代の漁具の一つ《土錘》。その形式と編年をもとに当時の漁猟生活の実像に迫ろうとする論文だが、なにしろ著者の45年前の論文そのものなので、発表者Iさんは、他の研究者(渡辺誠氏・武末純一氏)らの最近の文献をも参照して、当時の網漁・漁業の特徴・漁食文化、さらには土錘を副葬した香川県・喜兵衛島の製塩遺跡と古墳(こんな小さな島に16基もの古墳ががあった)について解説した。
 ▼ 配付資料のうちの1枚。土錘の使われ方まで紹介してくれた。
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二人目の発表者Kさんのテーマは《イイダコ壺》と《釣り針》。タコ嫌いと自称しながら、当時、どのような漁具(壺)を使ってイイダコ漁をしていたのか、それが時代とともに、どのように変化していったのかについて語った。イイダコ壺の出土状況についてのネット上の資料 ⇒尼崎市・東園田遺跡からの出土した『イイダコ壺』
ついで、タコの生態とタコ壺漁についての記事があった。対象がイイダコではなくマダコであったが、大小に差はあっても、壺の型式と変遷はほぼ共通であろうと、リンクを貼らせてもらった。⇒大阪府立環境農林水産総合研究所

発表者の皆さん、地味で退屈なテーマを、ときに余談を交え、楽しく聞かせる工夫をしてくださるので有り難いことこの上なし。

b0048558_21293451.jpg終わって、10月下旬の古墳探訪旅行担当から途中経過の発表があったが、「南九州の《西都原古墳群》に行ったことのある人は?」の問いに、半数以上が挙手をした。

2011年11月、今城塚古墳ほかを巡る旅で、集合駅で、「私、90歳ですが宜しく・・・」と挨拶した御仁がいた。2泊3日の旅を無事に終えたのだが、彼氏、今城塚の墳丘に上がることは遠慮されたりしたが、夕食時は、いの一番に、日本酒をオーダーして呑んでいた。

万が一のことがあってはと気にはなるが、南九州のプランには是非参加したいと、参考資料を探したら、2015年12月刊のものがあった。ネットで検索、翌日配達。書店を探し回るより遙かに便利。
# by from76 | 2017-04-14 21:41 | 古代史を訪ねて | Comments(0)

静岡・愛鷹山南麓の古墳を訪ねる(2017/4/4)

今日の「前方後円墳研究会・静岡岳南地区古墳探訪」には不参加だったが、都合もついたし予習もしたことだしと、ツレの運転で後を追うことにした。

8時半、家を出て東名高速をまっしぐら、11時半、富士市博物館《富士山かぐや姫ミュージアム》に到着した。

まず、ここが《かぐや姫》ゆかりの地であることを知る。ここの《かぐや姫》、実は、富士山の神様・浅間大菩薩で、長じて、月ならぬ富士山の洞穴に入っていったというのだ。
 ▼ かぐや姫を物語り(展示室3より)
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 ▼ 富士山頂の鳥居(展示室2より)
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富士川の西岸に、かつて富士川の渡船役を担った岩淵の集落には、鳥居講という集団があって、12年に一度、富士山の山頂に白木の鳥居を奉納するという行事を、江戸時代から今日まで行っているという。
 ▼ 山頂で鳥居を建立している映像
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 ▼ ミュージアムの裏庭に保存されている先代の鳥居。42年前、この何代か前の鳥居をくぐったな~と・・・
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 ▼ 図録「富士山の古墳」 
富士市では、4世紀末~8世紀の約400年の間に約800基の古墳が造られ、うち、150基近い古墳を発掘調査してきた。そのなかから、「壁状構築物(段構造)をもつ「無袖型横穴式石室」の古墳など、19基(浅間・山ノ神・伊勢塚・実円寺西1号墳ほか)の石室と出土品を取り上げている。
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 ▼ 実円寺西第1号墳。直径17.5mの円墳。富士市域としては大型の古墳。
クルマでの「古墳」を探しは、カーナビが効かないことが多く、捜しあぐねて断念した経験があるが、今回は「所番地」まで行程表に入れていただいてあったので、最短距離で現場にたどり着くことができた。
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 ▼ 沼津市文化財センターにて、高尾山古墳について展示と説明を受ける。沼津市東熊堂に所在する、墳丘長62.798mの前方後方墳。築造は箸墓古墳よりやや早い、西暦130年頃、埋葬をおこなったのは西暦250年頃・・との見解だという。
被葬者は、東海道筋にあり経済上、軍事上極めて重要なこの地域を支配した首長と見られる。
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 ▼ 現地(訪問を省略してネットから)
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 ▼ 高尾山古墳の埋葬施設。舟形木棺が用いられたとみられ、その、長さ8.053m、最大幅1.252m。底には多量の水銀朱。副葬品は、銅鏡1面・槍2点・鉄族33点・ヤリガンナ1点・勾玉1点。
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 ▼ 三島市・向山古墳群
三島市にあり、箱根山西麓末端の丘陵部に、ほぼ一直線に15基、やや離れて1基(16号墳)が並ぶ。築造時期は4世紀中頃から6世紀前半まで。現在は公園として整備されている。
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 ▼ 遠く富士山・愛鷹山・駿河湾を望む絶景の地に向山古墳群はある。
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 ▼ 最後、三嶋大社参拝、箱根峠越え、小田原経由で帰京した。
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# by from76 | 2017-04-06 21:13 | 古代史を訪ねて | Comments(0)

88歳、草間彌生の今 (2017/4/1)

草間彌生の作品は、13年前の11月、湯河原の《かぼちゃ館》で、そして東京国立近代美術館の個展でとくと拝見した。図録も買ってあったので、今回の国立新美術館での個展はパスもありかと前売り券も買わずにいた。

だが、ふと書店で手にした彼女の自伝を読んで、小雨がちらつく肌寒い中を、六本木の美術館まで飛んでいった。会場でまず目に入ったのは約2メートル角の、色鮮やかな大作約130点が、四方の壁を埋め尽くしている。そのすべてが2009年以降、うち、もっとも多いのが、昨2016年の作品で33点もあった。
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 ▼ 自伝・新潮文庫(平成24年4月1日発行 平成28年10月20日3刷)
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帯に「私は死に物狂いで闘ってきた。」とあり、自伝の最後の方で次のように語っている。
「この数年は、毎年海外で、1年に4ヵ所や5ヵ所の美術館からも個展の申込があるので、とにかく新しい作品を次々と作りだめしておかなければ間に合わない状態にある。けれど、毎日、新しいアイデアが自然と出てくるのでちっとも困らない。真夜中でも考えが浮かぶと、あわててスケッチブックに描く。だから、とにかくスケッチブックと色鉛筆は、いつも自分の側に置いておくことにしている。そして、毎日、ものすごい量の仕事を私はしている。」

「従って、体はいつもぐだぐだになっている。寝ることだけが一番の快楽で、起きている時は、腰が痛い、足が痛い、頭が痛いの連続である。湿布を体じゅうに貼っているから満身創痍である。針灸に通い、マッサージを受けて、毎日毎日、神楽坂まで一万歩歩いている。体を丈夫にしておかないといけないので、自分の体を叱咤している。いくら思想があっても、体がダメになったらどうしようもないからだ。」彌生87歳。まさに超人的な天才。
           草間彌生「わが永遠の魂」

 ▼ 2013年8月、瀬戸内海の直島だったかで・・・ 
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# by from76 | 2017-04-02 10:40 | アート | Comments(0)

前方後円墳研究会の学習会 (2017/3/28)

午前、4月4日日帰りで行う「静岡岳南地区古墳探訪」の事前勉強会。
 ▼ 資料集(35頁)の作成担当者から(一人10分)で説明を聞く。
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 ▼ 探訪する古墳は愛鷹山の南麓に広がる。
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午後、明治大学博物館・学芸員の忽那敬三先生から収蔵品のうち《石製品と装飾品》について講義をいただく。A4版17頁に及ぶ資料の配布、前半は、スライドを使って、後半は隣室で実物を手に取りながら詳細な説明をいただく。
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 ▼ 幾つも並べられた状態で出土した《鍬形石》(全長15.4cm 4世紀中葉)
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 ▼ ヒスイ製勾玉・滑石製管玉・ガラス製小玉・水晶製小玉等々・・・
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# by from76 | 2017-03-30 14:01 | 古代史を訪ねて | Comments(0)

福島の浜通りから会津へ (2017/3/24-27)

南相馬市原町での従妹の一周忌法要に、24日、ツレの運転するクルマで出かけた。往き、常磐自動車道を広野ICで下り、国道6号線を北上した。富岡町を過ぎて《帰還困難区域》を通過する。自動二輪・原動機付き自転車・軽車両・歩行者は通行できない区間だ。
 ▼ 道路上はクルマが頻繁に走っているが、脇を見ると、立ち入り防止用の柵が設けられている。
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 ▼ ところどころに荒れ果てた店舗の姿が・・・
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復路は、違った道を走ろうと、原町区の海岸に出た。
 ▼ 2012年7月、震災の翌年に見た風景と、ちっとも変わっていない。6号線の先まで行って見たかったが、途中で通行禁止の札止め。電柱に、《海抜4m》の標識があった。右奥が、太平洋の海岸
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 ▼ 南相馬市の浸水マップ。
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赤い線が国道6号線、青丸の地点が父の生家、かつてのボクの本籍地だ。本家は日当たりのよい小高い地にあるので津波は免れたが、周囲の田んぼは、いまだに耕作不能のままだという。

南相馬市の震災による被害者数:死亡者588人、行方不明者87人、負傷者59人。
その他の詳細は・・・
 ▼ 相馬市内から国道115線に入り、福島市内を通過して土湯温泉の宿に向かう。
右方に、姿の美しい吾妻小富士が見える。
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 ▼ 正面が、12年前の10月に登った《安達太良山》だ。惜しいかな山頂を望めず。
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 ▼ 宿の露天風呂。数匹の猿が辺りをウロウロ・・・
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 ▼ 翌朝、雪景色にびっくり。雪は午前0時頃から降ったらしい。
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雪道を走ろうと土湯温泉から、国道115線を会津へ。途中、ネットで那須温泉ファミリースキー場で高校生等8人が遭難したとのニュースを聞いた。
 ▼ 国道115号線
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 ▼ 途中、道の駅《猪苗代湖》で小休止したのみ。
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 ▼ 猪苗代湖の白鳥も寒そう、
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クルマは、どこにも寄らず若松市内を通過、那須高原の北側を走る、雪で真っ白な289号線を経由して、那須高原SAから東北自動車道に入る。
# by from76 | 2017-03-29 20:44 | アウトドア | Comments(1)

古代出雲文化フォーラムⅤ(2017/3/19)

13:00~16:30 一ツ橋ホールの800席をほぼ埋めた今回のフォーラム。主題は、平成25年に発見された「出雲市杉沢遺跡を通る『古代の山陰道』」の調査報告であった。

島根大学が周辺自治体の協賛を得て主催した。自治体のパンフは廊下に置いてあるのみ、島根大学は、案内の冊子4冊を布袋入りで頒布するなど、子弟のや社会人入学の勧誘に主眼をおいたようだ。
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 ↓ 出雲市杉沢遺跡の位置と、尾根上ルートの想定図
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 ↓ 太い赤で示された道(スライドから) 
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 ↓ 発見された「古代の道」は、尾根上を縦走して約1km、切り土や盛り土を行いながら、両側に側溝を設け、約9mの道路幅をもつ大規模なものであった。
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今後は、「古代山陰道ウオーク」などを企画し、古代の景観を体感できる場にしたいと・・・

最後に、出雲国内の史蹟名勝地がスライドでザッと紹介されたが、古墳時代の遺跡としては以下の6古墳のみ。
  前期4C
 ①神原神社古墳
 ②松本1号墳
 ③造山古墳群・大成古墳
  後期6C
 ④山代二子塚古墳
 ⑤大念寺古墳
 ⑥岡田山1号墳

 ↓ そのうちの《神原神社古墳》
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 ↓ 棺内にあった「景初三年」(西暦239年)銘入りの三角縁神獣鏡。
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他に、鉄製素環頭太刀、鉄剣などの鉄製武具や農耕具などが出土している。

 ↓ 1972年、河川改修工事に伴う調査で、神原神社社殿の下から、供献土器や長大な竪穴式の石室がみつかった。(図録「古代出雲とヤマト王権」より)
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 ↓ 竪穴式石室内部(同上)
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 ↓ 読みかけ・・・。 3年前の1月に、2日かけて回っているが、再び、歩きたくなった・・・
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# by from76 | 2017-03-22 11:27 | 古代史を訪ねて | Comments(0)

頑張っているから? (2017/3/17)

昨日の朝刊記事「適正体重を維持しよう」。BMIを25%未満に抑えよう、そのためには、毎日体重計にのることを勧める。
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 ↓ ボクが毎朝夕乗ってomronの体重計、1週に一度くらいスマホをタッチさせうと、アプリ《からだグラフ》が、omronへデータを転送してくれる。
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即、スマホがグラフ表示してくれるが、omronのマイページにアクセすると、指定した期間のグラフを表示してくれる。
下はボクの過去389日のグラフ。凹凸のない直線区間はデータの転送忘れによる。
すべてが横這い。頑張っているけど効果がないのか、ガンバッテいるから肥満防止や加齢減少を防いでいるのか??? グラフ曲線の数字は、今朝の測定値。
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上から:体重:55.6kg 体脂肪率:27.8(軽肥満) 体年齢:61才(???)
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基礎代謝:1年を通して1,300以上(平均値は50~69 1,380、70~ 1,230だから、結果良好)、
内臓脂肪レベル:ほぼ9、たまに10(標準値 1~9、平均値 50代 10 60代 12)、
BMI: 22 で平均値(新聞記事)を大きく下回る。

結局、やせタイプの皮下脂肪太り? 
# by from76 | 2017-03-17 12:21 | からだ | Comments(0)

血糖値下げ過ぎもリスクに(2017/3/14)

今朝の産経新聞に表題の記事があった。日本糖尿病学会が昨年、高齢者のHbA1cの目標値を変更した、というのだ。
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そこで、日本糖尿病学会のホームページにアクセスしてみると、次のチラシが出てきた。
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なんと目標値は7.0未満。ボクの血液検査結果表には、基準値《4.6~6.2》とあるから、せめて7%未満にしたいとがんばってきたのだが・・・
 ↓ これも学会のホームページから・・・ 詳しいことは分からんが、7%台のボク、そんなに気にすることはなさそう、と勝手に解釈している。
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# by from76 | 2017-03-14 16:10 | からだ | Comments(0)

?認知考古学 (2017/3/10)

b0048558_21425528.jpg3月の前方後円墳研究会は、昨年6月からの「松木武彦著『認知考古学からみる古代~古墳とはなにか』の読み解き」の最終回。

17人目のT氏が最終章の『3. 神々のたそがれ』について語ったあと、10ページにおよぶレジメを用意して全巻を総括した。

「日本列島の古墳がなぜ大きくてたくさんあるのか」「なぜ前方後円墳なのか」「当時の人の目にはどう映り、かれらの心をどう動かしていたのか」といった根本的な疑問を解くには、認知科学を用いた考古資料の解釈法=認知考古学、いわば「心の考古学」による理解が必要である、とする著者の主張、これまでの考古学とはどう違うのか、結局ボク自身、納得のいく理解を得られぬままに終わってしまった。

b0048558_21432117.jpg帰宅後、墨田区図書館にアクセスして「認知考古学」を検索、著者が師匠とする松本直子さんの著作(写真)を発見したので、即、借り出してきた。260ページの大作から、なんとか納得のいく説明をみつけた。以下、P.38~からの引用である。

「そもそも、ヒトはすぐれて視覚的な動物であり、考古学者もヒトである以上、視覚的に分類を行っている。型式の連続性とは視覚的要素の連続性であると言い換えることができる。型式組列として認識されるものについて、考古学者は、しばしば「系統」や「系譜」などの言葉をもって、背後に文化的連続性を措定してきた。

したがって、前後関係にある二つの型式組列間の、形態を主とする視覚的要素に型式学的連続性が見出せない場合、両者のツナガリ――系統ないし系譜間係――を見出すのは困難である。逆にいえば、型式学においては視覚的要素の連続性の範囲内でしかつながりを理解することは困難なのである。ここに従来の型式学ではカバーできない問題点もしくは弱点の一つがあったといえよう。

この問題について、北部九州で弥生時代に盛行する甕棺を例として論じることにする。甕棺はいかにして成立したのだろうか。甕棺の型式組列を遡っていくと、ついには弥生時代早期に壷棺として使用された大型壷に至る(藤尾1950.橋口1992)。ここまでは大方の意見の一致をみており、異論はなかろう。北部九州では弥生時代早期に朝鮮半島の丹塗磨研の小型壷がほぼそのままの形で導入され、それを契機に縄文時代晩期以来の「形態生成構造」(後述)にしたがって同一の「形態パターン」(後述)を有するものとして列島特有の大型壷が発明されたと考えられる(中園1994)。

したがって、甕棺のルーツを型式学的に遡っても大型壷までしか遡りえない。つまり、従来の解釈では甕棺のルーツとしての大型壷は弥生時代早期に突然成立したというほかないのである。
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ところが、その直前の縄文時代晩期には北部九州に埋甕が存在した。埋甕とは、深鉢を使用した埋葬用とみられる施設であり、底部を打ち欠いた深鉢を直立させて墓壙中に据えるのが普通である。縄文時代晩期の深鉢と弥生時代早期の大型壷では埋葬に用いられた土器という点では共通しているが、もちろん型式学的連続性は認められないため、型式学的には両者は無関係とせざるをえなかった。

この点について松本直子(1997)は、「スキーマ理論」を用いて認知考古学的に両者のつながりを明快に説明している。スキーマとは、外界とのインターアクションをとおして心のなかに形作られた連想の体系でもあるが、それを完全に復元しつくすことは無理である。しかし、考古学が対象とする物質文化に即していえば、異なる人工物を関連づける象徴・イメージの体系といい直すことができる。したがって、物質文化をとおして本来のスキーマに近似させ、その一端をうかがうことは可能である。

北部九州での壷棺の成立は支石墓の登場とほぼ同時であり、支石墓下部の埋葬施設のバリエーションとして壷棺がみられる。支石墓の起源が朝鮮半島南部にあることは周知のことであり、縄文時代晩期以来の埋葬に関するさまざまな知識、神話的・宗教的組織の大きな変容を伴ったことは疑いない。ただし、朝鮮半島では支石墓下部に壷棺はおろか土器を棺として用いることは通常なく、その点は受容側におけるスキーマの変容・発明といえる。

朝鮮半島南部においては、さまざまな土器に関する「土器スキーマ」が存在したはずであるが、一部を除き土器を棺として用いるという考えは希薄であったと想定される。一方、「埋葬スキーマ」には、遺骸処理、支石墓としての墓の構造、副葬行為、供献行為などのスキーマが含まれていると想定される。なお、土器スキーマの一部としての小型壷は、小型壷が支石墓に供献されることにおいて埋葬スキーマと連結されるが、実際には朝鮮半島南部において土器そのものを棺として用いることは基本的になかった。

ところが、縄文時代晩期の北部九州においては、土器スキーマと埋葬スキーマは、土器棺としての埋甕を埋葬に用いるという行為によって深く連結されていたということができる。埋甕は日常的に使用する深鉢の転用であり、弥生時代早期の大型壷とは形態が明らかに異なってはいるが、土器そのものを棺とする行為があらかじめ存在したことは、ユニークな壷棺成立の説明を可能にする。北部九州では「埋葬」といえば、棺として連想されるものに土器があった一一土器スキーマが活性化された――のである。

弥生時代早期の支石墓の導入は、支石墓の外部構造、供献される丹塗の小型壷など、行為と神話的・宗教的知識を含んだ朝鮮半島的な土器・埋葬スキーマの導入であったが、それに加えて縄文的な土器・埋葬スキーマとの融合が行われたことになる。

この例の場合、埋甕と壷棺とは型式学的連続性としてはとらえることはできないが、壷棺を発明した行為者は埋甕に伴う縄文時代晩期からの伝統的スキーマを保有していたからこそ、それを成し遂げたことになる。このように過去の人々の「心」の連続性が物質文化の変化を生み出している場合があるが、その変化にはいつも視覚的にみてとれる連続性があるとは限らない。心の連続性、それは型式学的に辿ることができるとは限らないものである。

このような考えをすることで考古学に何かもたらされるのであろうか。従来の解釈では壷棺の成立をうまく説明できず、突然の発明と考えざるをえなかった。そして、いきおい起源となる壷棺が朝鮮半島にあるはずだと期待するむきさえあったのである。こうした誤解は、縄文時代と弥生時代の不連続性を強調することにつながり、縄文時代から弥生時代への変化の説明を不適切なものとしてしまいかねない。ところが、上記のような認知考古学的解釈をとることで、従来と異なる、より妥当性の高い選択肢を考えることができる点を指摘しなければならない。

同様の解釈法によって、たとえば前方後円頂や前方後円形墳丘墓の出現についても弥生時代墳丘墓と密接に関連させて説明できるかもしれないし、また、縄文土器の条痕調整と弥生土器のハケメ調整を、スキーマの変容を伴う心の連続性において説明できるかもしれない。このように形態的に無関係、または飛躍がありすぎるとみられていたものについても、心の連続性に注目することで、より適切な説明ができる可能性がある。

当然ながら生物とは異なって、人工物が生殖を繰り返して子孫を残すことなどありえない、人工物の再生産は製作者の認知スキーマを介して行われるのである。したがって、形態を主とする視覚的要素に連続性が見出せなくても、行為主体者である製作者の心の連続性にこそ迫らなければならない。」

共著者・時津裕子の『心理学と考古学をつなぎあわせる ― 認知考古学の試み』
(PDFファイル2頁、ダウンロード可能)

「認知考古学」は、物証でのみ解釈しようとする考古学者への批判でもある。

「認知考古学「をめぐっての討論は16時過ぎまで続いた。終わって、今秋の探訪旅行先が多数決によって決まった。
 ① 四国(讃岐・阿波)コース 4名
 ② 九州北部と熊本の装飾古墳(豊前・筑紫・肥前)コース 8名
 ③ 南九州《西都春古墳群&最南端の前方後円墳》(日向・大隅)コース 14名

3年前の1月、2日間にわたって福岡・熊本の古墳をクルマで回っているので、ボクは南九州コースに挙手。
 
# by from76 | 2017-03-11 21:40 | 古代史を訪ねて | Comments(0)