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「老いと記憶」を読む

「老いと記憶」を読む_b0048558_12414085.jpg80代前半の義弟、80代後半の従弟夫婦らが認知症の治療をうけていたり施設に入ったりしていると聞いて、明日は我が身かと、つい最近ゲットした増本康平著「老いと記憶」を読み、そこからからのピックアップ・・・

加齢とともに衰える記憶機能は二つ 
 ①「ワーキングメモリ」と呼ばれる複雑な思考や並列的な作業を担う記憶
   ⇒ 脳の萎縮が原因
 ②「エピソード記憶」と呼ばれる過去の出来事の記憶
   ⇒ただし、このこと自体が高齢者の人生の受容や、人生の幸福感に悪影響を及ぼすものではない。
   

高齢期でも維持される記憶機能は
①繰り返された経験によって身につけたハウツー的な習慣
②人生で獲得した知恵や知識(教育によって育成される学問知、経験によって培われる経験知、判断力、問題解決能力、対人スキルなどなど)

記憶低下への対応は
①覚えることを減らすか、覚えることやめる。
②記憶に頼らずメモや手帳などの記憶補助ツールを利用する

有効な記憶補助ツール
 ①メモや手帳は予定の確認には適しているが、予定の時間がきたことを教えてはくれない。
②携帯電話やスマホのリマインダー機能を使う。
高齢になっても新しい機器は使用できる。習うより慣れることで・・・

高齢者のスマホの普及率
①65~69歳の携帯電話の普及率は80%以上、スマホは30%弱(平成28年 総務省の情報通信白書)
②アメリカやイギリス、ドイツの60代の普及率は60%、韓国や中国では90%以上。
 ⇒日本では携帯電話の普及が他の国より早く、ガラケーを使い慣れていてスマホに移行する必要性を感じていない。
 ⇒興味はあるが、誤った操作をすると壊れるのではないか、といった不安
 ⇒新たに操作方法を覚えなければならないというフラストレーションが原因

認知機能の向上や認知症予防のための認知訓練の効果には批判的な研究者は多いが、スマホのゲームにはメリットを認めている。例えば「ポケモンGO」、モンスターを見つけるために外を歩くので身体活動量の増加につながる。

認知症を予防には、健康的な生活習慣
 ①豊富な社会的交流、余暇活動
 ②適度な運動
 ③魚の摂取
 ④ビタミンEやCの摂取
など


# by from76 | 2019-09-14 12:37 | シニアライフ

四谷第六の同級生(N様よりご紹介頂きました)

数日前、表記タイトルのメールをいただいた。48年前、肝性昏睡で身罷った息子の小学校時代のクラスメートからだった。

「はじめまして、◯◯◯◯と申します。
明治神宮外苑のN様より伏見様の名刺を郵送して頂き、名刺に書かれていたアドレスにメールしております。

実は私は友孝君の四谷第六小学校6年1組の同級生です。当時一番背が小さかった者です。小学校高学年時代はお互いの家に遊びに行ったりしてよく一緒に遊んでおりました。友孝君、私、3つ違いの弟と3人で逓信博物館に一緒に行ったこと、弟もよく覚えていると言っていました。

Jokenも大切にしています。私は四谷二中に進学しましたので、友孝君と最後に会ったのは四谷第六の卒業式でした。友孝君は子供の頃の多感な頃の私に強烈なインパクトを残してくれました。クラシック音楽が好きになったのも彼の影響です。初めて買ったレコードはカールベーム指揮のベートーベン第九でした。私の人格形成に少なからず良い影響を与えてくれたと感謝しております。

私は田中先生はじめ、同級生の皆さんとは疎遠となってしまいましたが、伏見様のHPをたまたま発見し友孝君のことを懐かしく感じました。妻の祖父がN様と繋がりがあり、またN様が伏見様とお知り合いと聞き不思議なご縁も感じております。
残暑厳しい折、伏見様もどうぞお体に気を付けてお元気でいらしてください。」

 ▼ 小学校高学年時代3年間の担任の田中一徳先生が編集してくださった追悼誌。A5版 38ページ。
 タイトルの”Joken”は、友孝が書き続けていたマンガの主人公。「ジョーク」に君をつけたものと思われる。
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ボクからの礼状
# by from76 | 2019-08-25 12:31 | 身辺の出来事

1971年9月9日(2018/9/9)


ボクが90年近く生きているというのに、一人息子は、47年前の今日、13年の生涯を閉じた。

小学1年から3年まで、何度も入退院を繰り返したが、4年になって元気になり、水泳・鉄棒・登山・スキーなどなんでも人並みにこなせるようになっていたのが、中学1年の7月8日、突然発病して国立小児病院に入院、51日後の深夜、息を引き取った。

家族に会えるのは、週2回、各2時間のみ。電話もダメ、連絡は手紙だけという、刑務所並みの孤独と40度に近い高熱に耐えながら、死の前々日まで日記やマンガを書き続けていた。

親が、彼の入院生活の実態について知ったのは、彼の残した記録によってだった。すべてが後の祭りだった。
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 『落語』(死後、友だちが録音テープを届けてくれた)

マンガも、落語も、いつ稽古をしていたのか、まったく知らなかった。悲しいかな、今親として、してあげられることは、彼の足跡を思い出して上げることだけ・・・

 

このブログも入力のフォーマットが変わり、他のSNSとのリンクも不能となり、大変、使いづらいものになった!




# by from76 | 2018-09-09 11:53 | 身辺の出来事

終戦の日に想う(2018/8/15)

毎年、この時期になると戦争の悲劇に関するドキュメントが放送される。「インパール 慰霊と和解の旅路」「船乗りたちの太平洋戦争・・・」「・・・戦争孤児たちの戦後史」「運命の分岐点『最後の帝国軍人・小野田寛郎少尉の生還』」などなど涙しながら、終戦時を己を回顧した。

ボクは、1928年、朝鮮で生まれ、終戦時は38度線のすぐ南、街外れの農業倉庫の社宅に、両親と弟2人・妹の6人で住んでいた。
終戦の日に想う(2018/8/15)_b0048558_13504445.jpg

9日には、ソ連が北朝鮮に侵攻しを開始、15日、日本は朝鮮半島の統治権を失い、半島全体が無政府状態となった。

間もなく38度線を越えて平壌から父の従弟夫婦が避難してきて、北の惨状を語った。

父は素早く、母と弟妹を京城に避難させ、その後、ボクと父は、小さな漁船で京城に引き揚げたが、途中、保安隊と称する青年に船を止め、同乗していた日本人から、財産を売った金を取り上げた。日本人が持ち帰れないものはすべて没収の対象となった。

京城の近くで上陸して進駐軍に出会った。「日本の男はすべて去勢、女性は強姦」と船中で聞かされていた。荷物2個までは後日、日本に送ると聞いて梱包したが、そのママになった。だまされたのだ。

10月中旬、ひとり一個のリュックを担いで、京城から列車で釜山につき、港の倉庫で2,3日滞在、某日早朝、MPに監視されながら大型客船に乗り、午後おそく、山口県の仙崎港に上陸した。

生まれてこの方、砲声や空襲警報のサイレンを聞くこともなく、戦後の苦労はあったものの、今日まで生き長らえて・・・戦火に散った人たちとの運命の大きな差に、表現することばなく、合掌するのみ・・・
 ▼ 朝鮮半島で終戦時を迎えた人たちの記録(区内の図書館から借りてきた)左:元東京新聞社記者による取材記。記事のほとんどが北朝鮮における悲劇。中:1938年生まれ、仁川で終戦を迎え11月2日博多着。右:1913年生まれ、終戦時、忠清北道警察部長だった。11月7日、大田駅を発ち釜山から博多港に着いたが正確な日時は覚えていない、とある。

翌1946年春、38度線以下の日本人はすべて帰国した。
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# by from76 | 2018-08-16 14:02

『山の日』に想う(2018/8/11)

今日が『山の日」だなんて、今朝のテレビで知った。山登りに縁のない生活になっているが、ボクのからだは『山登り』が作ってくれたと思っている。

 ▼ グラフは、ボクのアウトドアの記録
『山の日』に想う(2018/8/11)_b0048558_14492675.jpg
『山登り』は70代に最も多い。これは74歳『狭心症』が完治した際に、『マラソンでも登山でもやりなさい』と医師に勧められたことによる。これじゃいかんと思いながら、86歳でストップしたまま・・・

最近はもっぱら、近場のウオーキングとジムでの筋肉トレーニング。

# by from76 | 2018-08-11 14:51 | アウトドア