《女帝たちの時代》(2017/6/23) 

読売ホールでのJR東海主催《第155回 奈良学文化講座~女帝たちの時代》(18:00~20:45)に出席した。開場時間前から行列、半数近くが中高年の女性か・・・
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第1部 講演「飛鳥時代の3人の女帝」吉村武彦・明治大学名誉教授
A4 16頁の資料配付、パワーポイントを使って、推古・皇極(斉明)・持統の3女帝の足跡について語った。75分。

休憩中に「写真撮影お断り」のメッセージあり。

第2部 講演「古代を彩った女帝たち~プライドと”夢”にかけた生涯~」 滝浪貞子・京都女子大学名誉教授
吉村教授のあとの女帝、持統・元明・元正・孝謙(称徳)の4女帝の、特に、持統が天武亡き後、天武を神に祭り上げ、実子・草壁王子が早世するや、その子の珂瑠王子を皇位につかせ(天武)、以後、直系男子を皇統後継者とするため、代々の女帝が如何なる努力をしたかについて、B4 8枚の資料(日本書紀・続日本紀・万葉集・東大寺実録などからの引用 30条+図表17)を、上下、何度もひっくり返しながら、弁舌爽やかに熱っぽく語った。

印象に残ったのは、32回に及んだ持統の「吉野行幸」の謎の解明である。1年に3ないし5回と、頻繁に吉野に通っている。
▼ 持統が通ったと推定されている《宮滝遺跡》
(2009年8月、学習院大学・遠山美都男先生の案内で飛鳥から大型バスで)
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これを語っているとき、突然、「何日かかって通ったのか?」の発言が会場からあった。ボクもかねてから気になっていたのでマップで調べてみた。下のマップ通りだとすれば、片道約20キロ。1日で歩き通せる距離ではある。ここで1週間前後、最多19日間滞在している。
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あっという間の75分、称徳が目指したのは「神仏習合の王政」だったで時間切れ。ボクにとっては気になる部分、消化不足分は教授の著書でと、帰宅後、アマゾンから中古の「女性天皇」を注文(1円+送料)した。買って欲しいわけではないが、と紹介のあった本。書名を「女帝」としたかったが、出版社が、それでは売れないとしてこのタイトルになったが、売れませんでした、と。
 ▼ 左:近くの図書館にあった。右:本棚に積んであった。
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# by from76 | 2017-06-24 15:04 | 古代史を訪ねて | Comments(0)

三浦半島の海蝕洞穴遺跡を訪ねて(2017/6/20)

b0048558_10284518.jpg今年4月に出版された写真の本の表紙を飾る写真「三浦半島《毘沙門B洞穴》から海を望む」は、前方後円墳研究会の細川さんが撮影したものだ。

この辺りの遺跡を何度も探訪された細川さんの案内で、仲間のSさんと現地を訪ねた。
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 ▼ 詳細マップ(HPより
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 ▼ 9時、横須賀中央駅に集合、細川さん運転のレンタカーで、まず、宇内建設ビル3階の《赤星直忠博士文化財資料館》を訪ねる。

b0048558_1031098.jpg 赤星直忠(1902~1991)は、縄文時代早期の関東地方の土器型式の分類、弥生時代から古墳時代の海蝕洞窟遺跡や横穴墓、古代・中世の寺院ややぐら、城郭など多方面にわたる研究成果を遺した。

この資料館には、赤星や宇内正城社長が三浦半島を中心とする県内の洞窟や遺跡で発掘した5,000点以上の遺物を展示している。50分かけて、これから向かう遺跡の遺物を観察した。
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 ▼ 次いで三浦半島の南東、東京湾に向かって突き出た海蝕台地の山腹に開口する《大浦洞穴》を訪ねた。崖下に白く見えるのが大浦洞穴の案内板である。(上の書籍よりコピー)。
現在は低いコンクリート壁が湾を囲み、陸側が駐車場になっている。
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車を降り、まず、虫除けスプレーで防虫対策、草むらを踏み分けで洞窟に入る。
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洞穴は標高6~7mにあり、洞穴の規模は奥行き20m、最大幅8m、高さ6m。
 弥生時代中期後半から古墳時代後半まで、住居と墓地として使われた。出土遺物は、土器をはじめ、骨角器(回転銛頭・釣針・ヤス・アワビオコシ・骨製笄など)・貝製品(貝輪・貝刃・貝包丁)・卜骨・玉類(管玉・ガラス小玉)。
 洞穴の奥からは、弥生時代の頭骨が少なくても13体検出された。頭骨内部に損傷があることから、脳を食したあと洞窟内に投げ込んだのではないかと指摘されている。要因として個人的遺恨や深刻な反社会的紛争?
 古墳時代前期以降の墓は、石槨状の石組みを行い大型のアワビ・サザエが敷かれていた。20分滞在。
      参考《館山湾の洞窟遺跡「館山市立博物館」》

 ▼ 洞穴の内側から
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次いで、《毘沙門B洞穴》へ。毘沙門湾への狭い坂道を下り、海岸に出る。釣人用の車約10台あり。磯づたいに25分ほど歩いて洞穴下に至る。
 ▼ 毘沙門湾へ下る坂道
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洞穴は西側よりA・B・C・D・Eと5穴ある。弥生時代後期の遺物(貝類・魚類・爬虫類・鳥類・哺乳類などの自然遺物を含め)が多数出土している。C・D洞穴からは弥生後期の人骨も出土。
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B洞穴の入口幅6.3m、奥行き17m、入口から最奥まで1.6mの高低差がある。
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1時間後クルマに戻り、昼食は三崎港の《くろば亭》、だいぶ待たされて、ボクはキンメの煮付けを。
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午後一番は、大浦洞穴の北、東京湾に向け突き出た雨崎地区。

 ▼ 雨崎古墳群(手前のこんもりした森が《雨崎1号墳ー全長32mの前方後円墳》で、その奥が《雨崎2号墳ー径15m前後の円墳》)。
《雨崎洞穴》はこの裏側の斜面にあり、手前のネギ畑の奥に《雨崎横穴墓》が数穴開口している。
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 ▼ 《雨崎洞穴》
開口部は、丘陵の中腹、標高12mの位置にあり、滑りやすい斜面を草木につかまりながら登る。幅7m、奥行き浅く、現状では洞穴といより岩陰遺跡の雰囲気だ。傾斜地でバックできず、全体像をとらえることができない。
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 ▼ ボクの撮影(左の人物)と、細川さんの撮影(人物の右の岩壁)を合成した。
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古墳時代前期からおよそ300年にわたって墓地として利用された。直葬された20体と焼かれた33体の人骨、いずれも礫岩で石棺のように長方形に区画されたなかに埋葬されていた。

そして、洞穴の中央部から幅35cm、長さ約1.4mの木棺が置かれていた。木棺は丸太を半截したような割竹形を呈し、先端部をやや尖り気味に整形しており、舟形木棺を想像させた。木棺を移動した際、滑石製勾玉・臼玉をはじめ管玉・濃紺のガラス製ビーズなど大量の玉類がこぼれ落ちた。後の調査で被葬者は2歳前後の幼児であることが確認され、副葬品から「雨崎の王子さま」とよばれることになった。 
    参考《館山湾の洞窟遺跡「館山市立博物館」》

 ▼ いったん洞穴を下り、さらに進み《雨崎1号墳》に上がる。
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 ▼ 2号墳の墳頂から1号墳を望む。手前、前方部、雑木林の向こうに後円部と神社が見える。
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 ▼ 1号墳の後円部墳頂にある《雨崎神社》 新しい造りだ。
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 ▼ 《勝谷(かっちゃ)砂丘遺跡》
石棺墓と思われるが未発掘のため詳細不明。
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 ▼ この辺り、今はスイカにネギ畑など・・・
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畑の小道を歩いていたら、作業中の人から「墓を見に来たんかい」と聞かれた。「昔から雨崎沖は海難の多い場所で、たくさん遺体が流れつき埋葬された・・・」。ついでにと、雨崎神社の由来について尋ねた。「かつてここは水田地帯だった。旱魃に困った地元民が墳頂に神社を建て、神主に雨乞の祝詞を挙げて貰った」と。

 ▼ 最後は、《白山神社横穴墓》
丘陵の斜面に1穴のみ開口している。その形から《切妻造妻入形横穴墓》とも。
壁面・天井に柱・桁・棟などを陽刻してある。遺物は、隅切り四角銅板1・陶器片・かわらけ片・土製羽釜片などが出土した。中世以降、やぐらとして再利用されていた可能性が高いとか。
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18時過ぎ、横須賀中央駅にもどり、近くの居酒屋で軽く一杯の予定が・・・

今日の歩数計 12,900歩。
# by from76 | 2017-06-22 10:38 | 古代史を訪ねて | Comments(0)

「いかに生きるか、死を迎えるか」(2017/6/10)

日野原重明先生が創立した《一般財団法人ライフプランイング・センター》の第44回財団設立記念講演会に出席した。
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第1部の講師・保坂 隆先生は、聖路加国際病院リエゾンセンター長・精神腫瘍科部長を勤めながら、高野山大学大学院密教学修士課程(通信制)で空海の思想を学ばれた異色の先生。

先生は33年間、精神科医として「ガン患者と家族のための臨床」に当たってきたが、自分自身のなかに確固とした「死生観」や「宗教観」のないことを自覚されて、高野山大学に学ばれた。

「トトロと空海が教えてくれた~心豊かに生きる人生の秘策」と題して70分、「与えられた人生をどのよう生きるか、どのように死を迎えるか」について、ユーモアを交えながら語ってくれた。

スライドの文字を追いながらメモに努めたが追いつかない。スライド中で先生の著書「空海に出会った精神科医」を知ったので、休憩時間に自席から発注し、翌朝9時過ぎには、自宅に配達された。

空海の事績については何冊かの本を読んだ。だが、これは精神科医からのアプローチだ。必ずや、ボクのこれからの指針に・・・
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 ▼ 後半の目次
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第2部、日野原先生の講話は、急遽、ビデオメッセージに変更されたが、昨秋、博多で行った講演での。しっかりした話ぶり、「ベー・チェチョル」さんが歌った日野原先生作詞・作曲の「愛のうた」に合わせ、ステージに立って指揮棒さながらの腕を振るう元気な姿を拝見できた。
# by from76 | 2017-06-11 11:12 | 身辺の出来事 | Comments(0)

6月の前方後円墳研究会(2017/6/9)

6月の前方後円墳研究会。4月から始まったテキスト「古墳時代の生産と流通」の輪番による読み解き、その「第1章 古墳時代の漁具と漁撈」が、今日の2名の発表で終わった。

古墳時代の・・・と謳いながら、殆どが縄文・弥生時代の遺物(イイダコ壺・網_釣針・錘・ヤスなどの刺突具など)の、詳細な形式的分類。解読してまとめる論者に、かなりの心労を負わせる部分ではあった。

来月からは対象が石材に移る。遺体を収めた石棺、石槨、石室などの産地・材質・加工技術がテーマだ。

今秋の探訪旅行計画が煮詰まってきた。資料(14部)も訪問する博物館等から取り寄せ配布してくれ、旅行への期待感が高まる。

往復の航空券も、1ヶ月前にネットからスーパー割り引きで購入済み。

 ▼ 訪問する古墳マップ(宮崎県と鹿児島県)
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# by from76 | 2017-06-11 09:02 | 古代史を訪ねて | Comments(0)

結論は、体脂肪を減らせだった (2017/5/29)

1月末から、2日おきにジム通いを始めたが、先々週の金曜日、またまた《ぎっくり腰》、腹筋・背筋も鍛えているつもりだが何故だろう?  

ということで、テレビでおなじみの《Dr,KAKUKOスポーツクリニック》に予約を入れ、1週後に訪ねた。
 ▼ Dr.KAKUKO(ネットから)
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問診と検査2種。腰部のレントゲンでは異常なし。次いで、どの程度の運動強度が適当かについて調べてもらった。《Endo-PAT2000》による《血管内皮機能検査》。結果は以下の通り。

 ▼ 血管の広がりやすさ、血液を必要な場所へ届ける力を表す《血管の自発的弾力性指標》は、1万人のデータ分布のかなり左より、つまり「心血管疾患を引き起こすリスク」が高い、と出た。
 原因:血糖値が高い、体脂肪過多、昨日1万歩歩いた(疲労?)、などだろう。
 
 中村ドクターから、運動強度は、心拍数は最高90程度が安全圏だと指示された。
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 ▼ 血管内皮機能は、次の方法で改善が可能。従って、健康保険が使えるので、3ヶ月に1度チェックしてはどうかということに。ボクの場合は、運動と食事で体脂肪を減らすことに尽きる。
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 ▼ 血管の柔らかさ《血管壁の柔軟性》については、62,3歳の平均値相当だと。6年前、動脈硬化が強いので寿命は85歳までいわれていたのだが???
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最後に、トレーナーから筋トレの種類、強度、回数、姿勢などについての指導を40分受けてクリニックをあとにした。
# by from76 | 2017-05-30 15:11 | からだ | Comments(0)

眼からウロコの日本古代史(2017/5/17)

b0048558_1648792.jpgボクの古代史への関心は、2006年11月、レンタサイクルで飛鳥の里を走り回ったときに始まる。

そのときは、何も語らぬ遺構(王宮・寺院・古墳等)を見て回っただけだが、写真の本は、専門とする建築家の眼から、リアルな表現で遺構が果たした政治的な営みを、この地において、どのような過程を経て、「日本」という国号、万世一系の「天皇制」、そして「古事記・日本書紀」が創られたのかを解明してくれている。

まず眼からウロコだったのは、6世紀の大王(のちの天皇)の宮殿と飛鳥寺との対比であった。

飛鳥の王宮は、縄文以来の掘立て柱に、ゴロゴロした丸太の梁や桁や垂木を太めの縄でグルグル巻きにして固定し、屋根はボサボサの茅葺き、屋根裏もボサボサの茅葺きが全面的に露出し、屋内は昼でも薄暗がりだったといいます。

その中に、金ピカの仏像1体が百済から持ち込まれました。床置きのチラチラ燃える灯火に映える、初めて目にする金色の仏像に、欽明天皇以下、どれほどの衝撃をうけたことか。

間もなく、蘇我の馬子によって飛鳥寺が創建されます。五重塔を囲んで3金堂をもつ大伽藍です。柱は基壇上の礎石の上に立ち、木部は鮮やかな朱と緑に塗り分けられ、ところどころに金の飾り金具が取り付けられ、真っ白な漆喰の壁面と瓦葺きの屋根。これら建物群を囲む回廊の規模は、現在の法隆寺を大幅に上回る1.8倍もあったといいます。
 ▼ 飛鳥寺復元図(ネットから借用)
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これにより絶対的な権力を手にした馬子は、これまでの前方後円墳を、大王(後の天皇)陵は八角墳(発案は皇極・斉明)に、蘇我一族のそれはは方墳に変えたというのです。

最後は、持統天皇による皇祖神(アマテラス)の形成、「生前退位」による孫(のちの文武)への譲位、この現実の政治的意図を反映させた「古事記・日本書紀」の創作等々、新書版426頁の大冊ながら、記憶力の乏しくなったボクに、なんども読み返えさせる好著であった。
# by from76 | 2017-05-17 16:49 | 古代史を訪ねて | Comments(0)

花の横浜BayCityを歩く(2017/5/9)

おだやかな曇天、ウオーキングにもってこいの陽気だと横浜のBayCityを歩いた。《横浜駅東口》を出て、みなとみらい21地区のグランモール公園、赤煉瓦倉庫、大桟橋、山下公園を経て《元町・中華街駅》まで。
 ▼ 新緑の美しいグランモール公園
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 ▼ 公園通りに面して、ユニークな書店として知られるTSUTAYAがあったので立ち寄ってみた。書店のスペースの半分がカフェになっており、自由に書棚の本が読める。テーブル配置も余裕たっぷり、ヒマつぶしにはもってこいと思いながら、軽いランチを済ませ店を出た。折から6月4日まで、「第33回 全国都市緑化横浜フェア」の開催中とあって、この先、素晴らしい花を見ながら歩くことになる。
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 ▼ 象の鼻パークから赤煉瓦倉庫を振り返る。
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 ▼ 同じ場所から大桟橋を望むと、大型客船が見える。大桟橋の案内所でもらった「横浜港客船入港予定」によると、《ぱしふぃっくびなす》で、26,594トン、乗客定員620人、《春の日本一周クルーズ》で神戸からやってきて、17時に北海道の白老に向けて出向する。
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 ▼ 桟橋の向かい側の《シーボン・ソジャーン》。 32,346トン、乗客定員462人で、昨日、香港からやってきた。初入港で、東シナ海19日間のクルーズ。殆どの部屋にバルコニーがある。

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このクルージングの詳細がネットにあった。

 ▼ 山下公園で
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# by from76 | 2017-05-10 20:33 | アウトドア | Comments(0)

脂肪肝だって (2017/5/6)

2ヶ月おきの心臓検査、定例の心電図と聴診は異常なしだったが、血糖値が横這いのHbA1c 7.4のほか、AST(GOT)、LDH、γ-GTP、尿素窒素などが、わずかながら異常値を示した。《脂肪肝》だといわれた。

このところの太り気味を解消しようと、1月末から最低でも週2回ジムで特訓を始めた。ゴールデンウイークも、しこしこと筋トレ45分、有酸素運動30分などで半日つぶし、ようやく効果も出始めた矢先のこと・・・
 ▼ ジムで計測したデータ(Inbody)
(骨格筋率・体脂肪率・体脂肪について、78歳からのデータ。最後は3ヶ月間)
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骨格筋量は漸減、10年間《骨格筋量不足》と判定されたままだ。対する体脂肪率は《肥満》または《軽度肥満》の判定。

82歳のダウンは、先妻に先立たれた年のもの。



 
# by from76 | 2017-05-08 13:03 | からだ | Comments(0)

三輪山から5日目、天白磐座遺跡へ(2017/4/20)

旅の締め、まず、ホテル近くの《舘山寺・穴大師》に寄った。穴大師とは、約1500年前の横穴式古墳で、弘法大師が舘山に立ち寄った際に、この洞穴で37昼夜修業し、その礼にと舘山寺を開創したのだという。弘仁元(810)年の開創で、明治3年新政府の神仏分離令で廃寺になったが、明治23年再興が認められ曹洞宗 秋葉山 舘山寺となった。
洞穴の入口は狭く奥行きも浅い、奥には、自作の弘法大師の石仏が安置されていることから穴大師とよばれ、心願成就・眼病平癒のお大師様として信仰されているという。
 ▼ 石室を覆う墳丘
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 ▼ 入り口
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 ▼ 羨道
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 ▼ 玄室
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 ▼ 内側から表を
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 ▼ 舘山寺
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参拝を終えて、浜松市引佐町の《渭伊神社・天白磐座遺跡》に向かった。井伊直虎ゆかりの龍潭寺の駐車場にクルマを置いて探し歩いた。お目当ての磐座は、薬師山とよばれる比高30mほどの低い小さな丘陵上にあった。

▼ 渭伊神社に向かう途中で・・・
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考古学者の辰巳和弘教授が、30代に、巨岩の直下から、大量の土器のほか刀・鉾・槍鉋・鏃などの鉄製武具や工具、そして滑石製の勾玉を発掘した。古墳時代から平安時代前期まで磐座祭祀が行われていた聖地である。
 ▼ 渭伊神社
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 ▼ 磐座へ向かう
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 ▼ 天白磐座遺跡
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 ▼ 3番目に大きい石に触らせて貰った。 参考HPの「C石」
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        参考HP⇒ 《渭伊神社・天白磐座遺跡》

クルマに戻る途中《地域遺産センター》に立ち寄った。
 ▼ 井伊谷周辺の遺跡から出土した《土錘》の展示あり(左下)。浜名湖が使用か?
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図録《浜松の遺跡2・3》を購入した。浜松市内には1000ヵ所以上の遺跡が知られており、年間100件前後の発掘調査を行っており、その成果を書籍として刊行しているのだという。


最後、井伊直虎ゆかりの龍潭寺の本堂・庭園・開山堂等を拝観した。渭伊神社周辺が閑散としているに対して、こちらには、何台も観光バスがひっきりなし。
 ▼ 本堂
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 ▼ 開山堂
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 ▼ 小堀遠州作の庭園
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三輪山の磐座と天白磐座の2磐座探訪という目的を無事終え満ち足りた気持ちで、三ヶ日IC経由で帰途についた。
 ▼ 富士川SAからの富士山
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この日の歩数12,770、220段を数えた。帰りの高速道路を100km~120kmで飛ばすツレに、今日もボクと同じ歩数を歩かせてしまった。
# by from76 | 2017-04-21 12:55 | アウトドア | Comments(0)

土錘(どすい)とイイダコ壺 (2017/4/14)

b0048558_21285934.jpg4月の《前方後円墳研究会》、5冊目の文献解読が始まった。和田晴吾「古墳時代の生産と流通」である。

これまでは、墳丘や埋葬施設といった遺構を対象にしたものだったは、今回は、土・石・金属製品などの遺物をテーマにした文献だ。

テキストのトップは、弥生・古墳時代の漁具の一つ《土錘》。その形式と編年をもとに当時の漁猟生活の実像に迫ろうとする論文だが、なにしろ著者の45年前の論文そのものなので、発表者Iさんは、他の研究者(渡辺誠氏・武末純一氏)らの最近の文献をも参照して、当時の網漁・漁業の特徴・漁食文化、さらには土錘を副葬した香川県・喜兵衛島の製塩遺跡と古墳(こんな小さな島に16基もの古墳ががあった)について解説した。
 ▼ 配付資料のうちの1枚。土錘の使われ方まで紹介してくれた。
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二人目の発表者Kさんのテーマは《イイダコ壺》と《釣り針》。タコ嫌いと自称しながら、当時、どのような漁具(壺)を使ってイイダコ漁をしていたのか、それが時代とともに、どのように変化していったのかについて語った。イイダコ壺の出土状況についてのネット上の資料 ⇒尼崎市・東園田遺跡からの出土した『イイダコ壺』
ついで、タコの生態とタコ壺漁についての記事があった。対象がイイダコではなくマダコであったが、大小に差はあっても、壺の型式と変遷はほぼ共通であろうと、リンクを貼らせてもらった。⇒大阪府立環境農林水産総合研究所

発表者の皆さん、地味で退屈なテーマを、ときに余談を交え、楽しく聞かせる工夫をしてくださるので有り難いことこの上なし。

b0048558_21293451.jpg終わって、10月下旬の古墳探訪旅行担当から途中経過の発表があったが、「南九州の《西都原古墳群》に行ったことのある人は?」の問いに、半数以上が挙手をした。

2011年11月、今城塚古墳ほかを巡る旅で、集合駅で、「私、90歳ですが宜しく・・・」と挨拶した御仁がいた。2泊3日の旅を無事に終えたのだが、彼氏、今城塚の墳丘に上がることは遠慮されたりしたが、夕食時は、いの一番に、日本酒をオーダーして呑んでいた。

万が一のことがあってはと気にはなるが、南九州のプランには是非参加したいと、参考資料を探したら、2015年12月刊のものがあった。ネットで検索、翌日配達。書店を探し回るより遙かに便利。
# by from76 | 2017-04-14 21:41 | 古代史を訪ねて | Comments(0)