4日目、大阪から奈良へ。途中、今回の旅の目的の一つ大阪府太子町の磯長谷古墳群と法隆寺を訪ねる。
↓ 7:30~8:00無料入場券をもらって、あべのハルカスの60階「天上回廊」に上がる。東西南北360度に足元から天井までガラスを配した屋内回廊。一般客は9:00~ ↓ 南方向を見る。左から4番目の矢印が<百舌鳥古墳群>の在りかを示す。 ↓ 盆踊りのステージのあるフロアが天空庭園。上空まで吹き抜けである。 このホテル、予想以上に客が多いのにびっくり・・・ ↓ 磯長谷古墳群と竹内街道(上中から右方向へ) 古墳時代終末期(7世紀、歴史学上の区分では飛鳥時代)の古墳が集中して築造された。その多くが天皇・皇族級の大古墳であることから、別名・王陵の谷とも呼ばれている。 ↓ 10:35 磯長谷古墳群に到着する。 まず、聖徳太子廟(叡福寺北古墳)へ。古墳は、叡福寺境内の最奥部にあり、丘陵の南斜面に築造された径50m内外、高さ10mほどの円墳である。石室の入り口の唐破風の覆い屋は江戸時代につくられた。太子のほか母君の穴穂部間人皇女、妃の膳郎女の棺がある。 ↓ 叡福寺 寺伝によると聖徳太子の死後、大使追福のために推古天皇の勅によって坊舎10姻を置いたのが叡福寺の始まりだといわれ、後に、聖武天皇が大伽藍を建立した。1574年織田信長の兵火によって全山焼失、豊臣秀頼の聖霊殿の再建を契機に伽藍の再興が始まった。 ↓ 用明天皇陵(太子向山古墳) 第31代の天皇で聖徳太子の父君にあたる。古墳の規模は、東西65m、南北60m、高さ10m、3段築成の方墳で、周囲に幅7mの空堀を巡らす。この濠の外提までを含めた規模は、東西100m、南北90mに達する巨大な規模を有する。天皇陵が前方後円墳から方墳に変わっていった最初の方墳と考えられている。 ↓ 敏達天皇陵(太子西山古墳/奥城古墳) 第30代天皇として572年に即位。磯長谷では唯一の前方後円墳で、南方から伸びてくる尾根上に立地しる。全長93m、前方部幅70m、後円部直径56m、前方部高さ12m、後円部高さ11.5mの規模を有する。墳丘は2段築成で、くびれ部の両側には造り出しが認められ、周囲には幅の狭い空堀を巡らす。 ここは、古墳に至る道標がなく、汗をかきかき、けっこうの道を歩かされる。 ↓ 推古天皇陵(山田高塚古墳) 日本最初の女帝・第33代推古天皇のご陵。東西63m、南北56m、高さ11m、3段築成の方墳。 ↓ 二子塚古墳 推古天皇陵の南東200mに位置し、方墳を2基つなぎ合わせた双方墳という他に例を見ない形式である。墳丘の全長は61m、幅23m、高さは東側が4.6m、西側が6m、大半が盛土によると考えられている。 ↓ 孝徳天皇陵(山田上ノ山古墳) 女帝・皇極天皇の弟の軽皇子が第36代孝徳天皇として即位した。都を難波に移し、難波宮で亡くなられた。丘陵の南斜面に位置し、直径32m程度の円墳ないし八角墳ではないかといわれている。 ↓ 道の駅・竹内街道 難波から飛鳥へ抜ける最古の官道「竹内街道」に面して建つ。ここで、たった1個残っていたおにぎり弁当と果物、野菜などを買い、 ↓ 竹内街道歴史資料館のロビーを借りて昼食をとった。 ↓ 聖徳太子の眠る地、太子信仰にまつわる展示 13:40 竹内街道(新道)を経由して藤の木古墳・法隆寺・中宮寺へ立ち寄り、17:30 今夜の宿・奈良ホテルに到着。 ↓ 藤の木古墳 法隆寺の境内も歩き回ったので歩数計は、16,015
by from76
| 2014-07-22 10:20
| アウトドア
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