いつかは訪ねたいと思っていた「芝丸山古墳」と「愛宕神社」の2か所を含むコースのコピーを片手に、浜松町駅から芝公園を一周りして新橋駅までの6.8キロを歩いた。
まずは、芝大神宮から・・・ ↓ 平安時代創建の古社だが、立派なコンクリートの社殿。 ↓ 社業繁栄を祈願した企業の名札がずらりと並ぶ。 ↓ 増上寺の本堂。参拝客が長い列をつくっている。 次いで特別公開の「徳川将軍家霊廟」に入る。ここには2代将軍秀忠公をはじめとして6人の将軍、同御台所崇厳院、皇女和宮様ら5人の正室、3代家光公の側室桂昌院をはじめ5人の側室ほか歴代将軍の子女多数が埋葬されている。かつて南北に配されていた墓所が、学術調査の対象となり、その結果、遺骸は桐ケ谷斎場にて荼毘に付され、現在地に改葬されたものである。 ↓ ボランティアがガイドしていた。 ↓ ひときわ立派な静寛院和宮の宝塔(青銅製)。家茂公の正室となり、江戸無血開城などに尽くしたが31歳という短い生涯であった。右隣に家茂公の宝塔(石塔)が立つ。 増上寺の東、芝東照宮の裏手に目当ての「芝丸山古墳」はあった。 ↓ 東京都教育委員会の説明板には、 「全長106m前後、後円部径約64m、前方部前端幅約40m、くびれ部幅約22mほどの、都内最大級の規模をもつ前方後円墳である。標高約16mの台地端に位置し、前方部を南南西に向けている。江戸時代以降、原形はかなり損じられており、とくに墳頂部や後円部西側は削られてしまっている。明治31年に、日本考古学の先駆者坪井正五郎博士によって調査されたが、すでに後円部中央に位置していたと思われる埋葬施設は失われており、遺体や副葬品なども不明である。 前方部が狭く低い形態や、占地状態などから5世紀代の築造とみられており、そのころ、付近の低地の水田地帯に生産基盤をもち、南北の交通路をおさえていた、南武蔵有数の族長の墓だったと考えられる。」 ↓ 墳頂は広場となっていて「伊能忠敬記念碑」がある。 次は、東京タワー。はとバスがずらりと並ぶ。 ↓ 入場券売り場にも行列ができていた。まだまだ人気があるようだ。 次いで愛宕モリタワーとフォレストタワーに挟まれた青松寺の前に出た。この地区の開発の余波を受けて伽藍すべてがコンクリート製。 間もなく、愛宕神社の前だ。 ↓ 正面に86段の「出世階段」が見える。1634年、三代将軍徳川家光が芝増上寺を参詣した帰り、山上に咲く梅の美しさに惹かれ、「梅の枝を馬で取ってくる者はいないか」と供の者達に訊ねたところ、曲垣平九郎(まがきへいくろう)が見事に馬で石段を駆け上がり枝を取って来たため、馬術の名人としてその名を轟かせたところから「出世階段」と呼ばれた、という講談話を昔、何度も聞いていた。 江戸時代から現在にかけてこの男坂86段を馬で登頂に成功したのは11名(うち1名は2度成功)という。 ↓ 若い人は駆け足で登っていくが、ボクはすでに歩数10.000を超えていて足下不安。こと志に反したが女坂107段を上がる。 ↓ 愛宕神社もまた一人づつの参拝だ。初詣客は狭い山頂をくねくねと列をなして待っている。隣に建つ「NHK放送博物館」を観たあとも同じような行列だった。 愛宕神社のすぐ先に虎ノ門ヒルズがあった。閑散としていた。終点新橋駅の手前で烏森神社に参る。ここも初めて訪ねる神社だ。ここでも晴れ着姿の娘たちが願い事をしていた。 ↓ 打ち上げは寿司屋で。焼酎に鯵の刺身をもらったが、箸をつけた途端、鯵が頭をもたげてボクをにらみつけた。 帰宅後の歩数計 18,200。
by from76
| 2015-01-13 20:32
| アウトドア
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