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《伽耶》の滅亡 (2015/7/16)

17:00~18:30 明治大学 金任仲先生の講座「古代日本の朝鮮渡来文化」全7回の最終回。テーマは「伽耶の滅亡」。

文献(三国史記・三国遺事・日本書紀)に残る記録は、そのすべてを信用することはできないとしながらも、それらの一字一句を追いながら朝鮮半島南端部の歴史を解明してきた。

 ↓ 3世紀の朝鮮半島地図
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 ↓ 5世紀末の朝鮮半島地図
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 ↓ 伽耶の諸国図 今の慶尚南・北道の一部
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伽耶諸国は最後まで小国の連合体に過ぎなかったため、やがて、統一国家としての力をつけた新羅や百済の侵攻をうけて滅亡する。伽耶諸国と深いつながりのあった倭国に、伽耶を救援するだけの力はなかった。

 ↓ 朝鮮半島南端部の前方後円墳(●印)の分布図。これらは日本から朝鮮半島に移住した豪族のものといわれている。
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《伽耶》の滅亡 (2015/7/16)_b0048558_15194640.jpg武光誠「謎の伽耶諸国と聖徳太子」は、弥生時代のはじまりから古墳時代の中期頃に相当する紀元前2世紀から5世紀に至る約700年間、日本列島と朝鮮半島南端部とは共通の文化を有していた、というか、伽耶の文化をとり入れることで成長してきた。

しかし、6世紀、伽耶諸国が衰退期に入ると、大和朝廷は独自の文化を創造する方向を模索しはじめ、7世紀、新羅が朝鮮半島を統一し、伽耶のものと異なる新羅文化を生み出した時点で、日本と朝鮮は、それぞれ別の国として歩み始めた、というのである。
by from76 | 2015-07-19 15:30 | 古代史を訪ねて
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